熱帯のクリスマス
チャーリー岸田

その1 - バンコク市内

 2004年の年末に、ぼんやりとタイのバンコクに行って来た。目的は『特になし』。強いて言えば『何もしない』こと。
 実はこの年の年末で期限の切れるマイレージ・ポイントが有ったので、そのポイントを消化してしまおうと出掛けた訳だ。また、ここ数年の過重労働によって心身ともに疲れ切っていたので、何のしがらみもない異国の街でぼんやりと過ごしてみたかったこともある。
 できればプーケットなどのビーチリゾートに行きたかったのだが、そう言う所に1人で行くのもつまらなそうなので、今回はバンコクでだらだらすることにしたのだ。

 バンコクの空港に着くと、案内所に行ってホテルを予約。空港内の案内所では空室のあるホテルを格安の値段で案内している。事前に日本で予約するよりも割安になるのだ。今回はガイドブックには『中〜高級』とされているアンバサダー・ホテルを予約した。一泊約\3,500。この国のホテルとしてはかなり高額な料金ではあるが、今回は飛行機代が掛かっていないので少々の贅沢は問題ない。
 当日は飛行機の遅れで到着が夜になったので、ホテルにチェックインした後、屋外のオープン・カフェで飯を食って、スクンビット・ソイ23の妖しい界隈でビールを飲んで終わり。行動開始は翌日からとなった。

 都合の良いことに、バンコク市内のこのホテルは朝食が06:00AMからとなっている。リゾートホテルの多くが07:00AMからであるのに対し、ビジネス客も利用する都会のホテルは朝が早いので、早起きの岸田には都合が良い訳だ。
 「何もしない」が目的の今回の旅行ではあるが、とりあえず買い物だけは早めに済ませておきたい。面倒な用事は先に済ませておくに限るのだ。

 実はその年、職場の同僚の結婚式に出席した際に、ポケットチーフを無くしてしまい、「シルク製品は日本で買うよりもタイの方が値段が安くて種類も豊富だ。今度タイに行ったときに買おう。」と思っていたのだ。また、仕事で必要なネクタイも、手持ちの多くが擦り切れかかっており、タイでまとめ買いすることにしていた。

 朝食を済ませると行動開始。ホテルを出てスカイトレインに乗った。
 バンコクでは年々悪化する交通渋滞を緩和するため、5年前に街の中心部を結ぶ高架鉄道「スカイトレイン」が完成し、そしてこの年に初の地下鉄も開業していたのだ。我々東京/神奈川の人間には、車よりも電車の方が馴染みが深い。日本でも地方に行けば車社会となっているが、首都圏ではまだまだ電車が主要な交通機関である。勝手の判らない外国の地では、電車の駅から目的地まで地図を見ながらテクテク歩くよりもタクシーに乗ってしまった方が手軽で確実なのだが、つい電車を利用してしまうのは首都圏出身者の血かも知れない。

ChaoPhrayaRiver

 この日は1人でバンコク市内をあちこち歩き回っていた。そう書くとまるで旅慣れたやつのように聞こえるが、実はそれとは全く逆の間抜けな旅行者である。電車の駅を降りても目的の店が見つからず、地図を見ながら、「あっ、間違えた。」などと言いながら同じ道を行ったり来たりしていたのだ。おまけに往路の飛行機の中で遠近両用眼鏡を壊してしまったので、地図を見る度に道端で近眼鏡と老眼鏡を掛け替えなければならない。フィリピンのマニラにこんなやつが居たら、たちまち悪いやつのカモになってしまうところだ。

 基本的にはスカイトレインと地下鉄を利用したのだが、まだそれらはバンコク市内の中心部だけしか走っていない。郊外の目的地に行く場合はやはりタクシーやトゥクトゥク(三輪タクシー)を利用しなければならない場合もある。

トゥクトゥク

 ここで岸田は新たな発見をした。

その1 「タクシーの運転手が道を知らない」

 タイのタクシー運転手は自分の生活圏内の至極狭いエリアを走り回るだけで、少し離れた場所には行きたがらないのだ。
 その理由の一つには、この国のタクシーのメーターの仕組みがある。日本のタクシーとは異なり、距離が伸びても料金はあまり変わらない。つまりタクシーは短距離で多くの客を乗せた方が儲かるのだ。しかし理由はそれだけではない。メーターの付いていないトゥクトゥクやバイクタクシー(オートバイに二人乗りで客を運ぶタクシー)でも遠距離は嫌がるのだ。
 タイ人は日本人と同様の農耕民族である。日本に『一所懸命』と言う言葉があるように、農耕民族は一つの土地をひたすら守る習性がある。

「オラ、生まれてから今までこの村から出たことねえ。」
 そんな連中が大半を占めているのだ。そのため客の運送を生業としている連中でさえ、自分の生活圏内から離れることを嫌がる習性がある。

その2「タクシーの運転手が地図を読めない」

「地図を見るなんて、誰でも出来るだろう?」
 そう思うのは先進国の人間である。

 たしかに、『山奥で地図とコンパスだけを頼りに自分の居る場所を割り出す』とか、『船の上で海図に線を引いて航海計画を立てる』と言った専門技能は、それなりの訓練を受けた人間でなければ難しいだろう。しかし、『○○会社のオフィスは××駅の北口から徒歩5分』などの簡略地図を見てあちこち出掛けることは、我々日本人では日常の行為である。しかしそれも実は訓練の要る作業なのである。我々は子供の頃から日常生活の中でそのような訓練を続けて来たために、あたりまえのように地図を見て行動する能力を身に付けているのだが、そう言う行為とは無縁の生活を送っている人々には、地図を読むことは至難の技なのだ。

運転手 「お客さん、オラその場所は知らねえだよ。行ったことねえだよ。」
岸田 「大丈夫、大丈夫。俺の言うとおりに走ってくれよ。」

 岸田はそう言って無理矢理車に乗り込み、地図を見ながら運転手に指示を出す。英語を解さない運転手も多いのだが、『右』、『左』、『まっすぐ』、『止まれ』。それだけの単語を覚えていれば何とかなるものだ。

岸田 「トロンパイ! トロンパイ!(まっすぐ! まっすぐだ!)」
運転手 「お客さん、そんな大声出さなくても聞こえるだよ。」

 日本人はバカンスの間でも、時間を有効に使って効率良く計画を進める習性がある。この日の買い物も午前中に全て完了してしまった。あとはホテルに戻ってゆっくりするだけだ。

 しかしこのままホテルに引きこもっても面白くない。喧騒と排気ガスのバンコク市内にはうんざりしてしまったので、このまま午後は郊外を探索してみることにした。

 電車とトゥクトゥクを乗り継いでバンコクの外れまで行き、渡し船でチャオプラヤー川を渡ってバンコクを脱出。そのまま郊外を歩き続けた。

 バンコクは首都とは言っても東京とは規模が違う。日本の地方都市と同じレベルだ。街の規模は大きくない。
 バンコク市外を離れると、そこはトタン屋根が並ぶ貧民街。狭いバラックに大勢の家族がひしめき合って暮らしている。皆、バンコクでの職を求めて地方の農村から出て来た人々だ。そしてそのまま少し歩けばひたすら田んぼ。どこまで行っても田んぼだ。

岸田 「これだこれだ! やっぱり田舎は落ち着くなあ! わははははははっ!」

 ひたすら田んぼの広がる田園地帯に、岸田は郷愁を覚えた。ただ日本と異なる所は全然季節感がないこと。一年中真夏で二期作、三期作があたりまえのこの国では、稲刈りをしているすぐ隣の田んぼで田植をしている。そしてその他は青々とした稲が広がっている。また、草原には多くの牛が放牧されていた。

 岸田は目一杯この国の風景を堪能した。異国でありながら日本人に郷愁を感じさせるこの国がますます好きになった。

(それじゃあ、そろそろ帰るかな。)
 岸田はバンコクの方向に向って歩き始めた。この日はビーチサンダルで外出していたので、そろそろ足が痛くなり始めていたのだ。しかし何も心配する必要はない。俺の財布にはタイ人の月収を遥かに超える現金(3万円だけど)が入っているのだ。歩き疲れたらタクシーを拾ってそのままホテルまで帰れば良いのだ。はっはっは!

 旅慣れた人々には、『外国に行って、何でもかんでも金で解決するようなやり方は良くない。』と言う人が多いのだが、なぁに構うものか。俺は単なる一般旅行者だ。この国で少々のボッタクリに遭ったとしても、そんな額はたかが知れている。わはははは!

 しかしこんな田舎の農道にはタクシーなど全然通らなかった。

(しまった。少々遠くまで来過ぎたかな。)
 少しの不安感を抱えながら農道を歩き続けていると、そこに1台のトゥクトゥクが走って来た。

岸田 「ヘェーイ!」
 呼び止めたトゥクトゥクの運転手は、50歳くらいの人の良さそうなオッサンだった。
運転手 「お客さん、どこまで行くだ?」
岸田 「バンコクのアンバサダー・ホテルまで。」
運転手 「そんなとこ知らねえだ。」
岸田 「スクンビットのソイ23だ。スクンビット通りまで行ってくれれば判るよ。」
運転手 「オラ、行ったことねえだよ。」
岸田 「大丈夫。道順は俺が教えてあげるから。」
運転手 「・・・・・・。」
 運転手は困った顔をして下を向いてしまった。ここからバンコクは5km程度しか離れていないのだが、彼にとっては未知の世界なのだ。

岸田 「ホテルまで行けないのであれば、ここから一番近いスカイトレインのサヤーム駅まで行ってくれ。駅ならば判るだろう?」
運転手 「・・・・・・。」

 オッサンはまだ下を向いている。

岸田 「よし。それならば100バーツ(約270円)出そう。それならば行ってくれるだろう。」

 これは破格の提案である。この運転手は間抜けな外国人(岸田のこと)を乗せて数km走るだけで大金が手に入るのである。こんな運の良いやつはいない。

 しかし運転手は下を向いたままだ。

運転手 「・・・・・・。」

 どうやら金額の問題ではないようだ。この運転手は本気で自分の生活圏から出ることを恐れているらしい。こうなったら泣き落とししかない。

岸田 「俺は心細いんだ。言葉も通じない土地で道に迷ってしまい(実はちゃんと地図で確認していたけど)、君が乗せてくれなければ知らない土地で野宿しなければならないんだ(実は歩いて帰れる距離なのだけど)。」
運転手 「判った。乗れ。」

 運転手はオート三輪の後部座席を指差した。仏教国のこの国では、遠路はるばるやって来た旅人に便宜を図ることが功徳になると教えられている。四国の『お遍路さん』と同じである。困っている旅人を助けることが、天に功徳を積むことになるのだ。この運転手も、異国から来て道に迷っている可哀想な外国人をそのまま放置できなかった訳だ。

 車がバンコクに近付くに連れ、運転手の顔は次第に不安感を増して来る。

(何だか悪いことをしたなあ。)

 しかし、ビーチサンダルで摺れた足で、これ以上歩くのも面倒だ。まっ、それもまた人生。この運転手にも良い経験になったことだろう。わはははは。

 そしてサヤーム駅に着くと、この運転手に過大なチップを与え、スカイトレインに乗り込んだ。これからホテルには戻らず、スクンビット・ソイ23の妖しい界隈に乗り込むのだ。わはははは!

つづく


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