川下良二の海外事情(6)
by 川下良二


その6 インドネシア激闘編(中編)

小職は、成田空港を発つ前に、日本食をかならず食べます。しばらく日本とお別れということもありますが、海外で病に伏す、事故に遭うことで長期に渡り帰国不可能、あるいはーーー。ということを想定し、覚悟して出国します。曰く、最後の晩餐です。(本当にまじです。)


インドネシアの首都ジャカルタの玄関口、スカルノハッタ空港に到着すると1番最初に気になるのは、イスラム教の独特な匂いです。多分香の匂いだと思います。滞在中はずっとこの匂いを嗅ぎ続けることになります。1回目は常務に同行しました。小職は初めて、余りにも見とこともない風景に戸惑うばかりです。異次元の空間へ迷いこんだ雰囲気です。

結局、インドネシアは96年5月中旬から7月末まで、都合3回訪問しました。その間日本に居たのは3週間もなかったと思います。その滞在期間は、悪戦苦闘の連続で、ビジネスの出張とはほど遠く、さながら猿岩石かドローズの慢遊記レベルの旅でした。長々と講釈をたれても読み苦しいだけですので、簡単に触れておきます。

  • 会話
はっきり言って、英語が通じるのはホテル、レストランの類で、後はインドネシア語のみです。唯一救われることは、文字はローマ字で、そのまま発音すればネシア語になります。
一番英語が上手いと思った人物は、夜な夜なホテルのロビーからハウスホーンでアプローチしてくる現地コールガールでした。

  • 移動
レンタカーは不可。よってリースカーを使用し、運転手を雇いました。事務所開設が前提ですので、本採用としました。生まれて初めての運転手付きの待遇ですが、車は経費削減からサニーです。なんともはやアンバランスな取り合わせです。せめてボルボに乗りたかったなー。
リース料は、月35万円で、べらぼうに高い。工場生産労働者の平均賃金は月1万円〜2万円ですから。

  • 事務所
東南アジア最大の華僑系財閥、I社の1室を借りることにしました。この会社のダンレポートを入手しようとしても無理です。アンタッチャブルの世界です。
ちなみに、インドネシアの経済は華僑系が握っています。インドネシアの政変、内乱の度に憎悪の対象になり焼き討ち、暴行が加えられています。(その度に華僑系資本はシンガポールへ逃げます)
チャイナタウンもありますが、法律で漢字を使って看板を掲げることは禁止されています。

  • 駐在員の住宅
予算を把握するという意味で、何軒か見て回りました。家賃は年間前払いで、月20万円が相場のようです。高い。

  • 病院
一般の医療技術は低く、外人専用の病院を訪問しました。ここは、日本の週刊誌でも紹介されたところで、ジャカルタ市内の治療活動の他、最前線への緊急医療(ヘリ使用)、それから比較的医療設備の整った、シンガポールへの緊急輸送も行っています。なんとなく、最前線の野戦病院のような位置付けです。日本人の医療スタッフと会話している最中、次のような質問を受けました。
「ところで、インドネシアに来る前に予防接収はなさいましたか?」
「へっ? 予防接種ですか?」
「インドネシアは、コレラ、腸チフス、赤痢、マラリア、出血デング熱が蔓延しています。」
「へっ?」
「最近では、出血デング熱で日本人が死亡した例があります。」
「へっ? 本当ですか? そんなもん、誰も教えててくれませんでしたよー!!」

こ、これはまずい。食事は生ものを食べないことにしても、蚊を媒体にした伝染病は防ぎようがなし、どーしてくれるんだー。
この日以来、異常なまでに蚊に対して敏感になり、ストレスの溜まる日々を送りました。法定伝染病にかかると、日本へ帰れなくなる。!!

  • イスラム教
コーラン、ラマダン結構。豚肉を使わない中華料理結構。しかし、トイレはちょっと困る。ホテルはOKだが、高速道路のレストエリア、工場などは、用を足した後、お尻を手で水洗いする。さすがにやったことはないが、水浸しになる。手に匂いがつくかも。

  • 駐在員
結局手配が遅れ、7月のエンジン工場調査隊の受け入れは小職がやることになりました。
一度、ジャカルタからスラバヤへ移動しましたが、飛行機のやりくりがつかず遅延。またよく揺れたこと。ガルーダ航空機が、福岡空港で離陸に失敗、炎上事故があった直後で乗務員の退社が大量にあったらしい。スラバや空港へ到着した時はどっぷり日が暮れてて真っ暗。タクシーに乗ってホテルへ。ふと、足元を見ると、タクシーの運転手は、裸足で運転していているではないか。 おおーカルチャーショック。

  • ワルサン
運転手の名前です。よく働く若者です。土日も休まず仕事に付き合ったくれました。
余り、英語も解りそうもなく、片言のネシア語と筆談でコミュニケーションをとりました。
「あした、8時半に迎えにきてくれ。」という文章を車の中で、作文しながらホテルへ帰っていました。
今から思うと、不思議なくらい会話がよく成立したと思います。ただ、信頼関係は構築され、最後の別れ際、小職の下で働きたいと泣かれました。 この辺のノリは「課長嶋耕作フィリピン編」にそっくりです。


ジャカルタ駐在員事務所を開設し、若手の駐在員を配置し小職の業務は7月26日終了しました。
なんとか、調査隊のアテンドも落ち度なく終了。ほっと一息です。考えてみると土日も働きずくめ、酒も飲む機会もなく、娯楽もなし。ただ疲労困憊。
さていよいよ、7月26日最後の日、スカルノハッタ空港へワルサンに送ってもらいい出国手続きをしようとしたら、移民官から指摘を受けました。夜の10時前です。
「外国人が、インドネシアに1月以上滞在する場合は、警察の許可が事前に必要。あなたは出国できない。」 疲れ果てた小職に二の次はでません。しかしながら、移民官は続けます。
「5000円払ったら、私が何とかしてあげる。」
小職はためらわず、5000円札をさし出して、出国させてもらいました。賄賂やー。あまり考える力も残っていません。
日本へ帰国し、3日ほど課長の席をみがいておりましたが、直ぐにハワイへ旅立ちました。
そう1996年ケンウッドカップです。JAL便でホノルルへ到着し、ホテルへタクシーで向いました。
ハーバーでJUSTのメンバーに巡り会えた時は、すべてに全身全霊パワーを使い果たした後でした。
たどり着くのがやっと、病気にならなかった分だけ幸いでした。
合掌。

     
つづく。

Seaside Cafeのトップへ戻る
HOME