川下良二の海外事情(7)
by 川下良二


その7 インドネシア激闘編(後編)

インドネシアのテレビ映像などは、ほとんど見かけません。バリ島の観光案内くらいです。
最近かなり東部のほうですが、東テイモールの悲惨な光景を目にすることができます。
ジャカルタと大差ありません。

1997年5月あれから1年経ちました。仕事も順調に推移してきました。合弁事業として、タイに2件、インドネシアに1件掛け持ちしていた為、頻繁に日本との間を往復しておりました。
要領よく成田で携帯電話をレンタルし、片言のネシア語を駆使しがらの出張です。

連休明け、4人の調査チームをアテンドすることになりジャカルタ入りしました。そのころ国会議員選挙で、選挙運動が活発に行われていました。スハルト大統領引き入る国民党が圧勝することは目にみえておりましたが、実態はかなり緊迫した情勢でした。選挙運動といっても選挙要員はすべて雇われ身で、あまり政治意識の高くない連中です。
トラックの荷台に乗り込み、旗を振りかざし運動をする姿は選挙運動というよりも、昭和30年代に東映映画に登場するヤクザの出入りか、百姓一揆です。

高速道路ですれ違う彼らの姿は異様で、他候補を見つけるとそのまま暴力行為に走ります。
大統領官邸に通じる高速道路はすべてバリケードで封鎖されており、治安維持部隊(インドネシア軍)が警戒しておりました。 いたるところで、暴動が多発しており死者も出た模様です。

ある日、我がチームは、ホテルでチャターしたボルボセダン2台に分乗し、ジャカルタ市外で調査を行っていました。
その日の仕事を終了し、夕方ジャカルタへ帰る途中、大問題に遭遇しました。
高速道路が途中封鎖さてており、ジャカルタへ向えないようです。まだ10KM以上あります。
誘導されるままに高速を降りると渋滞が待っていました。近くで暴動が発生しているようです。
そろそろと動き、広い交差点に差しかかかった時です。目に入った光景に唖然としました。
そこには、左側には暴徒、右側には鎮圧部隊が陣取っているではないですか。装甲車も見えます。
商店街の窓ガラスは叩き割られ、略奪が起こっています。鎮圧部隊は自動小銃を携帯しているものの、発砲はしていなようです。しかし催涙弾の発砲は水平打ちです。もうもうと催涙弾の煙が立ちこめ、視界もそこぶる悪い。暴動のど真ん中に迷い込んでしまいました。

これはまずい!!
前が空き車は進めるものの群集が取り巻き前へ進めません。後ろから続く2台目も同じようです。運転手の顔も引きつっておりどうすることもできません。このまま動けなかったらどうなるか? 引きずり出されて---
緊迫した一瞬です。

  判断に躊躇している間に、群集の一部が我々の車のボンネントをたたき始めました。車をひっくりかえされたら一大事です。

このような状況に陥ったことはかつてありません。思いあまった一瞬、ダッシュボードを両手の平で叩き、叫びました。

「JARAN!!」 ネシア語でGO!!です。アドレナリンが沸騰します。
すなわち人をなぎ倒し進めです。そこで、運転手も力いっぱいクラクションを鳴らし、アクセルを踏み込みました。
一瞬前方の群集がひるみ、避けた為に隙間ができました。うまい具合に急発進させましたが、ボコンとうい音もしました。多分人にあたったと思われます。そんなことかまっておられません。アテンドしている4名の安全が最優先です。
その交差点を蛇行しながらすり抜け、民家の路地へ逃げ込みました。
その後、どこをどう走ったか覚えていません。後続車ともはぐれてしまいました。

なんとか、1時間後ジャカルタ市内のホテルへたどり着きました。後続車も遅れること5分戻ってきました。やれやれです。あのまま動かなかったら、どうなっていたのでしょう。引きずり出されててなぶり殺しにあったのでしょうか?それとも安全に退避できたのでしょうか?判りません。
冷静に考えても多分、あの状況が続けであれば、最悪の状態を招いたに違いありません。

「とりあえず、よかった。」と思ったのですが、日本から初めてジャカルタ入りした4名の顔を見ると、顔面蒼白、 あまり言葉も発することもできなかったようです。
多分もう2度とここには来たくない。と思ったに違いありません。

その後、アジア通貨危機の中、結局スハルト政権は倒れ、全土にわたる暴動が発生したことは、皆さんご存知の通りです。
日本政府は、航空自衛隊の派遣をも決定したくらいです。ジャカルタは暴徒に焼かれ、略奪され、中華系婦女は暴行を受けました。
東テイモール問題を含め、インドネシアの混沌を21世紀以降も続きそうです。

     

終わり

Seaside Cafeのトップへ戻る
HOME