熱帯の憂鬱(2)
by チャーリー岸田


part-2

我々一行を乗せた車は、ルソン島熱帯雨林のジャングルを走り、リンダの故郷「マロロス村」に到着した。
車が家に着くと、近隣の親類縁者一族郎党友人知人その大勢が、ザワザワと集まって来た。
これから数日間、彼らは100%フルタイムで我々客人の接待に当たることになる。
この連中は俺たちを接待すること以外にやることがないのか?
無い。
一族の男たちは、誰も仕事を持っていないのだ。
これを見て日本人はこう思う。

「おまえらが働かないから、娘たちが日本に出稼ぎに行かなくちゃならないんじゃないか?」
とことろがフィリピン人はそう思わない。
「娘たちが出稼ぎに行ってくれるから、俺たちは働かなくても食って行ける。」
熱帯の男たちは、明るく陽気でサービス精神溢れる連中だが、とんでもない怠け者だ。

俺たちはリンダの弟サムに土産物を手渡した。
総一からは腕時計、岸田からは電動髭剃り。
今回のツアーは、リンダが弟サムの成人式に出席するための帰国。岸田と総一はそれに付いて来たわけだ。

「オー・マガンダン!」(すばらしい)
腕時計と髭剃りを見て、サムは歓声を上げた。
その場に集まっていたサムの友人たちが、羨ましそうに腕時計と髭剃りを覗き込む。
良く見ると、サムの友人たちには2種類のタイプが居る。
第一は「リーバイスのジーンズにNIKEエアジョーダンのバスケットシューズを履き、腕にG-SHOCKを巻いた青年たち」。
それ以外は「ヨレヨレのTシャツにサンダル履きの青年たち」。
この違いは何なんだ?
前者は「お姉さんや妹が日本に出稼ぎに行っている青年」。
後者は「お姉さんや妹が日本に出稼ぎに行っていない青年」。
それだけの違いだ。
この蒸し暑い熱帯の村では、ジーンズもバスケットシューズも必要ない。短パンにサンダルの方が快適だ。
また、自然の中で暮らす彼らには、腕時計など必要ではない。
しかし、タイやインドネシアなどの伝統に基づいた生活をしている民族と違い、アメリカ占領時代の長かったフィリピン人には、消費社会の欲望が根付いてしまっている。
フィリピン人は、テレビや腕時計が欲しくて家族を出稼ぎに出しているのだ。
そしてこの家は、四姉妹のうち3人が日本で働いているので、現地の基準では大金持ちの部類に入る。

間もなく晩御飯。
リンダのお母さんが娘の帰国に合わせて何時間も掛けて作ったフィリピン料理だ。
驚くほどの多くの種類の材料を使い、多大な手間隙を掛けて作ったフィリピン料理が並ぶ。
この家は金持ちだからこんなに豪華な料理が食べられるのか?
それとも、今日は娘の帰国と客人の接待のために特別に豪華な料理を作ったのか?
答えはどちらも「NO」。
食料の豊富なアジアの熱帯では、これくらいの料理はあたりまえなのだ。
この家でも、娘が日本に出稼ぎに行くずっと前から、食べ物だけは豪華な生活を続けていたのだ。
日本では高級魚とされている鯛が、フライにされて山と積まれている。
これをフィリピン人は、食べやすい所だけをかじって骨の隙間などは穿らずにどんどん捨てて行く。
飢えを経験したことのない熱帯の民族には、「食べ物を粗末にしてはいけない。」などと言ったモラルは存在しない。
日本人はジャパ行きさんを見て「おしん」を連想してしまうが、この国情の違いを認識しなければ見方を誤る。
江戸時代には飢饉で多数の餓死者を出し、昭和に入ってからも飢えを凌ぐために娘を売った日本やイギリスなどの寒い国とは環境が違うのだ。
彼らは、

「テレビが欲しい。」
そんな理由だけで娘を日本に送り込んでいる。
欧米型の消費生活は、そんなに楽しいものか?
家族を大事にして、一時も家族と離れていられないフィリピーノが、外国に出稼ぎに出るほどに、消費生活は魅力的か?
我々には理解できない。

リンダのお母さんは、次々と新しい料理を出して来る。
食べ切れない。
しかし、ここまで歓待されてしまっては、食べないわけには行かない。
ここでもう一つの問題がある。

「フィリピン料理は日本人の口に合わない。」
新鮮で豪華な材料と、多大な手間隙を掛けて作られた料理だが、その味付けが日本人にはつらいものなのだ。
日本には、インド料理は言うに及ばず、タイ料理、ブラジル料理、アフリカ料理の店もあるが、「フィリピン料理」の店は見かけない、日本人には合わないからだ。
それを食いきれないほどに食べて晩餐は終わった。
俺たちは、食い過ぎの胃もたれとフィリピン料理の匂いに参って、庭のベンチに寝転がっていた。
そこに人間を満載したトラックが登場。 
この家の親類の一家らしい。
「うちにも来て欲しい。」
ちょっと待った。今、俺たちは満腹で動けないんだ。
「うちのお母さん、外国のお客さんのために料理沢山作ったよ。食べてくれないとママが悲しむよ。」
計画性のないフィリピン人は、お客さんが今晩どこで晩飯を食べるのか?
そんなことまで計画できない。
トラックには我々3人のために荷台に3つの椅子が積んである。もう行かないわけにはいかない。
我々は満腹の腹を抱え、油ぎったフィリピン料理の第2弾を食べるために、リンダの親類の家に向かった。
「ソーメンかざる蕎麦なら食べられるんだけどなあ。」
そんなものあるはずない。

二度目のつらい晩餐が終わると、その家のおじさんが息子に言った。

「家で飲み食いさせるだけでは、わざわざ外国から来てくれたお客さんに失礼だ。カラオケに連れて行ってあげなさい。」
我々はまたトラックに乗せられ、遥か彼方にある市街地まで揺られ続けた。
都会のカラオケスナックは、日本の店とは違い、中央の舞台で客が歌うようになっている。
日本人やタイ人のようなシャイな民族とは違い、自分の席で座ったまま歌う客など居ない。客は皆、舞台に上がってパフォーマンスを繰り広げる。フィリピン人は陽気で芸達者だ。
まずはリンダがホイットニ・ヒューストンを歌う。
リンダは歌唱力にかけてはプロ並だ。
そして次は岸田の番、となったところで、カラオケタイムは終わり。「イッツ・ア・ショータイム!」となった。
しかし、ショータイムのダンサーの踊りが下手。フィリピン人とは思えないノリの悪さだ。
客席からはブーイングが起こって来た。
それでもダンサーは踊りを止めない。
「もう見て居られない。」
岸田は客席の中央に踊り出ると、音楽に合わせて踊り始めた。
ステージの踊りがつまらないことへの意思表示だ。
これは他の客からのヤンヤの喝采を浴びた。他の客もステージのダンサーの踊りには納得していなかったのだ。
店を出るとき、店の従業員が岸田に挨拶に来た。
「盛り上げてくれてありがとう。あんなダンサーの100倍はエキサイティングなダンスだったぜい!」
もう、どうでも良い。俺は疲れた。後はリンダの家に帰って寝るだけだ。
しかし、お祭り騒ぎの日々は始まったばかりだ。
つづく。

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