始めての鍼

by チャーリー岸田

 それは1980年代半ば、バブルの波が日本を飲み込もうとしている時代であった。
 場所は、今は既に解散してしまった鎌倉のヨットスクールのコーチ部屋。
 集まった俺たちは皆20代。そして部屋には1本のワイルドターキーが置かれていた。
 もちろんこの酒はコーチ仲間の海外旅行のお土産。当時日本ではこの酒が1本1万円もしたのだ。とても20代の若造に買える酒ではない。
 俺たちは先を争ってこの酒を飲み始めた。
 これがいけなかったのだ。まだあまり酒を飲み慣れていない俺たちが、先を争ってウィスキーをストレートでばんばん飲んでいた。
 あっと言う間にボトルは空になり、後は安酒のサントリーホワイトになった。
 既に身体の許容量を超える量を飲んでいたにも係わらず、急いで飲んだためにあまり飲んだ気がしない。酔いもまだ回って来ていない。
 俺たちはそのまま続けてホワイトもばんばん飲み続けた。

 急激な目眩に襲われた。酔いが回って来たのだ。
 俺は外に出て吐いた。しばらく吐き続け、胃液まで吐いたが、まだまだ苦しみは去らない。
 もう吐くものが無くなった頃、部屋に戻ってぶっ倒れたが、かすかな意識の中で天井がグルグルと回っていた。

 翌日の日曜日は鍼灸師のC子に会うことになっていた。
 日曜の朝、C子の家に向かう車の中で、俺は深刻な二日酔いに耐えていた。
 C子の家で彼女を乗せ、俺たちは横浜のチャイナタウンに向かった。

 しばらくの間、C子の買い物につきあって数軒の店を回っていたのだが、俺の身体はとても立って居られる状態ではなかった。

「もう駄目だ。立って居られない。」
 俺たちは近くの喫茶店に入った。

 ところがここも駄目だった。
 真夏というのに俺は朝から寒気に襲われ、背中がゾクゾクして仕方が無かったのだ。そう言えば、ここに来るまでの車の中でもエアコンのスウィッチを入れた覚えがない。
 俺は喫茶店の冷房に耐えられなかったのだ。

「悪いけど、一旦車に戻ろう。」
 俺とC子は路上駐車した車に戻った。
「あなたねえ。二日酔いになるまで飲むほど子供じゃないでしょう?」
「ごめん、少し横になっていれば良くなると思う。」
 俺はシートを倒して横になった。意識が遠のいて行く。
 その時だ。C子は当時流行のハマトラファッションの定番、「キタムラ」のバッグから鍼を取り出したのだ。
「な・何するんだ! 鍼なんて止めてくれ!」
「いいから横になって居なさい。」

 当時俺は、鍼治療なんてとっても痛いものだと思っていた。
 しかしC子は有無を言わせぬ迫力で俺をシートに寝かせた。
 そのときのC子は、普段の彼女とは全く違うプロの目になっており、彼女の言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
 実は俺は気が小さい。自分の身体に鍼が刺さっている姿など見たくない。
 俺は上を向いて目をつぶった。
 C子は俺のシャツをまくりあげ、腹を露出させた。

「もうすぐ効いて来るからね。」
「えっ?」
 恐る恐る目を下に向けて見ると、俺の腹には既に数本の鍼が刺さっているではないか。身体には全く痛みがない。いや、身体に鍼が刺さっている自覚すら全く感じないのだ。彼女はそのプロの技術で俺の腹の痛点を避けて鍼を刺していたのだ。
「あと30秒くらいで来るからね。驚かないでね。」
「えっ? 何?」
 それから30秒後、俺の腹筋がいきなりブルブルと震え始めた。まるで腹筋が痙攣を起こしているようだ。
「ななな・何だこれは?」
「あなた昨日、吐いたでしょう?」
「どうして判るんだ?」
「このあたりの筋肉を触ってみれば判るの。吐いた後はこのあたりの筋肉が引きつっているのよね。今その引きつりを取っているところ。」
 一連の腹筋の震えが収まると、身体は急激に楽になった。
「おおーっ! なんだか爽快な気分だぜ!」
「まだ終わっていないのよ。もう少し寝ていなさい。」

 俺はこの車の中で治療されることに少々の抵抗があった。車の周りは黒山の人だかりだったのだ。
 このとき、俺たちが車を停めた道路のすぐ横で、柴田恭平と館ひろしが刑事ドラマのロケを行っていたのだ。俺たちの車の周りは、そのロケを見に来た野次馬でいっぱい。その中の何人かが、車の中で行われている鍼治療に気付き、珍しそうに覗き込んでいたのだ。
 しかしプロフェッショナルのC子には、周りの雑音など全く目に入っていないようであった。

「今は筋肉の引きつりを取っただけ。胃の中はこれからよ」
 彼女は俺のズボンを膝まで捲くり上げた。
 そして膝に鍼を深く深く刺した。
「胃のツボは膝にあるの。もう少しこのまま待ってね。」
 しばらく経つと、胃にジワーっと蘇って来る感覚があった。
 例えるならば、寒さでかじかんだ手を湯に浸けて感覚が戻って来るときの感触だ。
「具合はどう?」
「腹が減った。」
 俺はこの日、朝から何も食べていなかったのだ。鍼治療を受けるまでは、何も食べられる状態ではなかったのだ。
 その後俺たちは中華街の店に入り、心行くまで食べまくった。
 鍼がこんなに効くものだとは思わなかった。それまで俺は、東洋医学とは、もっと効き目が判り難いものであるはずだと勝手に想像していたのだ。

<その後の副作用>

 翌日俺は、朝早く目が覚めた。腹が減って目が覚めたのだ。朝飯が待ちきれなかった。
 朝飯を食って会社に行くと、午前10時にはまた腹が減ってしまう。昼飯が待ちきれない。
 日曜日に胃のツボを刺激したせいで、胃の動きが活発になり過ぎてしまったのだ。
 その後の一ヶ月で俺は5kg太った。
 東洋医学にも副作用があることを、俺は初めて知った。

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