キングスカップ遠征記 1998   

by チャーリー岸田


 
 舵誌(1999年3月号)に掲載された文章の原文です。本文中に説明がないので解説しますと、Phuket King’s Cup Regatta(以後キングスカップ)はタイのプーケットにて毎年開催されている国際ヨットレースです。このレースはプミポン国王の60回目の誕生日を記念して1987年に第一回大会が開催され、今年(1999年)で13回目になります。毎年約20カ国、100艇前後の参加があり、日本からは1995年に初めてのエントリーがありました。(以上、管理人)


 
 

(JUSTチームのキングスカップ遠征記)

 最初は酒場で始まった。毎日酒に溺れる日々を送っている我々は、いつもの酒場で今年の忘年会の計画を練っていた。ただ集まって酒を飲むだけでは日常と同じ。イベントとしてはパンチに欠ける。しかし、新艇の納入が遅れ、現在船の無い我々のチームには、恒例の忘年会クルージングもできやしない。
 ここで浮上した案が「キングスカップで忘年会」。キングスカップ遠征にかこつけて一週間掛かりの大忘年会を開こうという案だ。
 キングスカップが選ばれた要因としては、

1.一日一レースのみで、毎日昼過ぎからリゾートできる。
2.毎晩パーティーが開かれ、シンハー・ビールが飲み放題。
3.この季節のプーケットは毎日微風なので、二日酔いで操船しても恐くない。
4.現在タイバーツが安いので、いくら飲んでも破産しない。
 などなど。早い話が単なる飲んだくれの延長だ。酒の勢いで話はトントン拍子に進んだ。

 飛行機の中で早くも短パンに着替え、俺たちはひたすらシンハー・ビールの空き缶を生産し続けた。気分は既にトロピカル。
 空港からのタクシーがホテルに到着すると、ホテルの玄関にタクシーを待たせたままチェックイン。荷物を部屋に放り込み、そのままプーケットの歌舞伎町、欲望の街パトンビーチへと向った。
 ところが当日はタイの王様の誕生日。ナショナルホリデーなので、盛り場の灯は全て消えていた。いくつかの食堂は開いているものの、酒場や妖しげな店は全てCLOSED。
しかたなく我々は地元の食堂に入った。

 「か・辛え!」
 「わっわっ、口から火がでるーっ!」
 大騒ぎしながらタイ料理を食い続ける俺たちを、現地の連中が珍しそうに眺めていた。
 ふと、その中の3人組の若いねーちゃん達が目についた。タイには妙に美人が多い。
 さっそくナンパを開始。
 「明日、俺たちのヨットに乗らないか?」
 一見効果的に思えるこの台詞も、実はあまり効き目がないことは、KAZIの読者であればご存じのとおり。おまけにこの3人には全然言葉が通じない。紙にヨットの絵を描いて翌日のプランを説明したが、どこまで通じているのか全然解らない。その夜はひたすら虚しい努力が続けられた。

 翌日はレース前の1日だけの練習日。宴会モードとは言え、日の丸を掲げて参加している以上、あまり間抜けな走りはできない。少しは練習が必要だ。
 ところがこの朝、カタビーチには昨日の3人娘が来ているではないか。俺達は大喜びで船を出した。
 この日のデッキの上は、娘たちの南国の微笑みで満たされ、クルー全員が鼻の下を伸ばしたまま宴会モードに突入。とても練習どころではない。

 「おーい、少しは練習しようぜ!」
 全く反応がない。タイランドに来て2日目で、早くもチーム全員熱帯の誘惑に溺れつつあった。その後の行動については秘密。

 レース当日はメンバーのうち二人が朝帰り。それぞれの昨夜の行動を追及したいのは山々だが、レースを前にしてそれどころではない。
 ところが、この朝帰り組が妙に張切る。朝帰りした後ろめたさからか、このレースでの活躍が際立っていた。
 二日酔いのまま参加した第1レースだったが、なんとこれがクラス6位。

  「おっ!これは行けるぞ!表彰台も夢じゃない。せっかくここまで来たんだから、何か貰って帰ろうぜっ!」
  単なる忘年会のはずが、初日の成績が良かったために、妙な欲が出て来た。

  翌日は島回りのロングレース。ピピ島目指して意気洋々とスタートしたものの、昼過ぎからベタ凪。炎天下での我慢大会の様相を呈して来た。
  周りのレース艇は、暑さに耐え兼ねたのか、それともピピ島でのパーティーに間に合わせるためなのか、どんどんリタイアして機走し始めた。
  今回のツアーのコンセプトとしては、ここで一緒にリタイアするべきなのだろう。しかし、昨日の6位が心に掛かった。とりあえずペケでもいいからフィニッシュしよう。まだまだ入賞の可能性は消えたワケじゃない。
  ピピ島に入港したのは日が暮れてからだった。俺達はアンカーを落とすとそのままパーティー会場のビーチへと乗り込んだ。

 パーティー会場では、タイの民族音楽に合わせて、現地の子供たちによるダンスが披露されていた。エキゾチックな中にも、妙に懐かしいリズム。俺達の中に流れるアジアの血が騒いだ。
 最初に踊りの輪の中に入ったのは、アメリカ娘だった。こんな場面では必ずアメリカ人に先を越される。しかし彼女のロックンロールなリズム感は、タイの民族音楽に合わせて踊るには、少々無理がある。ここで日本チームが乱入。アクションは盆踊り並だが、妙に音楽にマッチしている(ような気がする)。
 東京のエンジニア、唐津の陶芸家に続いて上海のOL、エチオピアの航海士、フィリピン人のおとっつぁんなども次々と乱入。パーティーは多国籍舞踏会の様相を呈して来た。
 この連中は、パーティー終了後もピピ島内のオープンバーに場所を移し、延々と深夜まで馬鹿騒ぎが続けられた。こんな過酷な忘年会は初めてだ。

 昼はレース、夜は毎晩パーティー。そのパーティーも、日に日に盛上がりを増している。
 熱帯に冒され活動を停止した脳味噌に、休む間もないイベントの嵐。そんな厳しい?スケジュールの中で、俺たちの身体を支えたのが「タイ式マッサージ」。
 毎日海から帰るとそのまま浜にゴロリ。明らかにストレスゼロの顔をしたオバチャン達に身体を預け、熱帯の夕日を眺めながらのマッサージは、いやあ極楽ゴクラク。これが無ければ毎晩の過酷なパーティーは乗り切れない。

 そして最終レース。入賞への最後のチャンスとなったが、あと一歩及ばず、総合成績はクラス7位。
 王様のトロフィーは貰えなかったけれど、ここまで楽しんだからには、もう何もいらない。
 エメラルドグリーンの海、容赦無く照りつける太陽、底抜けに明るい笑顔、そしてビール。人生他に何が必要だろう?

 帰国前夜、俺たちは毎日世話になったマッサージ屋のおねえさんたちを招いてお別れ会を開いた。
 タイ語しか解さない彼女たちと、英会話さえもあやしい我々では、言葉によるコミュニケーションは全く不可能。冷えたビールにトムヤンクン、そして笑顔だけで宴会は進行した。南の島では言葉はいらない。

 最後に一言。英会話が全然できない我々のチームのために、毎晩のパーティーで通訳を務めて下さった舵社取材スタッフの皆さん。どうもありがとうございました。

以 上
 

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